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Chapter 63 - 第5話「原子の影」

1945年8月6日,午前8時15分. 石炭紀は説明のつかない恐怖と共に目を覚ました. それは物理的な感覚だった.胃の底に氷が沈み込み,科学者としての理性が,正体の見えない脅威に対して警鐘を鳴らしていた.何かが来る.今日,間もなく.

彼は軍隊のベッドに横たわり,周囲では第23部隊が機械的な効率良さで朝のルーティンを始めていた.林は朝早くから酒を飲み,斉藤はこの1週間で3回目となる銃の手入れをしていた.山本は,これらすべてが必要になると確信している者のような手つきで,慎重に医療品を整理している. そして,兵舎の向かい側に座るカイトもまた,同じ不可解な恐怖を抱えて彼を見つめていた.

二人の目が合った.未来から来た者同士,この朝が「間違っている」という知識を共有する者としての認識が通じ合った.「あんたも感じてるのか」カイトが現代語で,唇をほとんど動かさずに静かに言った. 「ああ.現実が息を止めているようだ」「何かが来る.すべてを変えてしまう何かが」

石炭紀の脳裏を歴史の知識が駆け巡る.1945年8月.8月初旬.戦争はもうすぐ終わる.高校の歴史の授業で辛うじて聞き流した記憶だ.だが正確な日付は,具体的な出来事は.... 8月初旬に何が起きる? 何を忘れている? その時,パズルのピースが嵌まった.恐怖が確信へと変わる.広島だ.今日は,広島の日だ. 彼の表情から悟ったのか,カイトの顔が青ざめた.「何だ? 何があるんだ?」 「話がある.今すぐだ.表へ出よう」

二人は朝の任務を装って兵舎を抜け出した.プライバシーが確保できる爆撃を受けた建物の跡地を見つける.廃墟には灰と死の匂いが漂っていた.1945年の東京では見慣れた匂いだ. 「教えろ」カイトが問い詰める.「今日,何が起きる?」 「広島だ.アメリカが原子爆弾を落とす.最初の一発だ.街全体が破壊され,7万人が即死する」 カイトは呆然とした.「原爆? 核分裂反応か?」 「そうだ.もうすぐ起きる.爆発は...」石炭紀の声が震えた.「太陽の欠片が地上に落ちるようなものだ.温度は太陽表面を超え,半径1キロ以内のすべてが蒸発する.建物も,人間も,すべてが消える.かつて人がいた場所の壁には,影だけが焼き付くんだ」 「いつだ? 何時だ?」「正確には覚えていない.午前中だ.8時か,それとももっと後か.僕は物理の学生で,歴史専攻じゃない.8月の初めだとは知っていたが...」

その時,音が届いた. 爆発音ではない.広島は400キロも離れている.だが,別の何かが届いた.大気の違和感.嵐の前の気圧の変化に似ているが,それは石炭紀の作ったマシンが子供の玩具に見えるほどの規模の「時空の歪み」だった.

現実の構造がたじろいだ.カイトもそれを感じた.「今の音は?」 「歴史だ.リアルタイムで起きている歴史だ」石炭紀の手が震える.「今,400キロ先で7万人の人間がこの世から消えた.世界は『前』と『後』に分断されたんだ.そして僕たちは『後』の世界に立っている」

二人は,その事実の重みに沈黙した. 「俺の時代では」やがてカイトが虚ろな声で言った.「この瞬間を学ぶ.1945年8月6日,午前8時16分.人類が自らを滅ぼす力を手に入れた日.『純粋な時代の終焉』.絶滅を選択できる神になってしまった瞬間だと」 「君の歴史では,この後どうなる?」 「長崎だ.3日後の8月9日.もう一つの爆弾で4万人が死ぬ.そして8月15日に日本は降伏.アメリカの占領が始まり,戦争は終わる.だが,その影——『原子の影』が消えることはない」

石炭紀は思考を巡らせた.「あと3日ある.別の街が焼かれるまで,3日だ」「警告すべきか? 長崎を避難させるか? 4万人の命を救えるかもしれない」 「どうやって? 誰が信じる? 仮に信じてもらえたとして,タイムトラベラーだと明かさずに未来を知っている理由をどう説明する?」石炭紀の声は苦い.「これが漂流者の呪いだ.何が起きるか知っていながら,止める力がない」 「じゃあ,ただ見てるだけか? 警告すれば救える4万人を見殺しにするのか?」 「警告したことで事態が悪化したらどうする? 避難させたことでアメリカが別の反応を示したら? 別の都市にさらに多くの爆弾が落とされ,もっと多くの人が死ぬかもしれない」石炭紀はカイトの肩を掴んだ.「タイムトラベルは『力』じゃない.『麻痺』だ.すべての行動が予測不能な波紋を生む.最も安全な道は,唯一の道は,できるだけ何も変えないことだ」 「それは臆病者の論理だ」「生存者の論理だ.僕たちはまず,生き残らなきゃならない」

カイトは手を振り払い,怒りと葛藤を顔に滲ませた.「道を見失ったから兵士になった.なのに今は『歴史を変えるのは危険だ』なんて理由で人が死ぬのを見てるだけか.地獄だ.ここは本物の地獄だ」

二人は廃墟に座り込んだ.異なる未来から来た二人が,使うことのできない知識に押し潰されていた.正午,ニュースが届いた.軍の電報は混乱していた.将校たちは,繰り返せば理解できるとでも言うように,同じ文面を3回読み返した. 「広島,壊滅.街全体が消失.新型兵器一発.閃光の後,沈黙」 兵舎は静まり返った.

林軍曹が報告書を読み直し,手を震わせた.「爆弾一発だと? 一発で街一つが消えたのか? そんな...あり得ん.そんな威力のある火薬など存在しない.必要なエネルギーは...」 彼は言葉を失った.誰もその計算を理解できなかったからだ.だが,石炭紀には理解できた.その知識は毒のように胃に溜まった.彼はすべてを知っていた.その悍ましい詳細のすべてを.

斉藤が震える声で最初に口を開いた.「どんな兵器なんだ? どんな技術を使えば...」 「そんなことはどうでもいい」林が酒に手を伸ばし,遮った.「問題はアメリカがそれを持っていて,我々は持っていないということだ.つまり,勝負はすでについている」 若く,まだ勝利を信じていた田中伍長が抗議した.「いえ! 日本の精神があれば——」 「街を消し去る兵器の前に精神など関係ない!」林の自制心が崩壊した.「わからないのか? 奴らは空から俺たちを『削除』できるんだ.飛行機一発,爆弾一発で街が消える.次は東京かもしれん.俺たちは明日,気づかないうちに全員死んでいるかもしれないんだぞ!」

兵舎は議論の渦に飲み込まれた.報告を信じない者,パニックに陥る者,静かに涙を流す者.カイトは外にいた石炭紀を見つけた.二人とも混沌から逃げ出そうとしていた. 「彼らは知らないんだ」石炭紀が静かに言った.「3日後に長崎が焼かれることも,9日後に天皇が降伏を発表することも.この戦いも,死も,すべてがすでに決まっていることだなんて」 「歴史を変えられないと知っているのが,一番きつい」 「ああ.たとえ変えられたとしても,楽にはならないだろう.第二次世界大戦の規模は,僕たち個人が変えられるようなものじゃない.混沌には慣れていたつもりだが,この惨状は...今まで直面した何よりも酷い.巨大な虫のほうがまだマシだ」

遠くで東京が燃えていた.原子の火ではなく,今や慈悲深くさえ思える通常の焼夷弾による空襲だ. 「僕の時代では」石炭紀が言った.「核兵器は歴史的な遺物だ.人類の思春期が生んだ危険な骨董品.中世の拷問器具を調べるように,その恐怖に驚き,その使用目的を理解できずに学習するんだ」 「俺の時代では完全に禁止されている.2089年から世界中で.すべての弾頭を解体し,設計図を破棄し,製造は人道に対する罪になった」カイトの声は虚ろだ.「結局,学んだんだ.何度も絶滅の危機に瀕した後に,ようやく」 「世界は存続するのか? 長い目で見れば」 「ああ,辛うじてな.1962年,1983年,冷戦中のいくつもの危機を乗り越えて.日本も再建される.平和主義の国になって.2228年の東京は...」彼は悲しげに笑った.「綺麗だぞ.行けばわかる」

「行けばわかる」.二人が交わした約束.だが,マシンは一人分の質量しか運べない. 石炭紀はまだカイトに真実を話していなかった.必死に解決策を探し,時空フィールドを再設計して二人で帰れる方法を模索していた. だが,時間は尽きかけていた.戦争が終わる.アメリカの占領が始まれば混乱は加速する.すべてが崩壊する前に,跳ばなければならない. 「作業を急ごう」石炭紀が言った.「マシンだ.時間が足りない」 「わかってる.回収任務の隙に部品は盗んである.必要なものは揃った.あとは最終ステージ用の高容量コンデンサだけだ」 「1945年の日本でそんなものがどこにある?」「日本にはない.だがアメリカ軍は持っている.彼らの通信機器の中だ」 石炭紀の目が鋭くなった.「米軍の物資を奪うつもりか」 「帰りたいんだ.俺たちが必要なレベルの技術を持っているのは,今はこの世界でアメリカ人だけだ」カイトが目を見据えた.「やるか?」 「もちろんだ」

広島壊滅の衝撃に日本が揺れる中,二人は2日かけて強奪計画を練った.軍の規律は崩れ,将校は命令を拒否し,市民は暴動を起こしていた.日本を繋ぎ止めていた社会秩序が,理解を超えた敗北の重みでひび割れ始めていた.

1945年8月9日,午前11時2分. 石炭紀が任務の準備をしている時,二発目の原子爆弾が長崎に落ちた.彼は再び感じた.あの時空の歪みを,現実がたじろぐ感覚を.4万の命が核の炎に消えたことを.

カイトは兵舎の裏で吐いている石炭紀を見つけた.「二発目だ」石炭紀が喘いだ.「君が言った通り,3日後だ.また4万人が死んだ」 「わかってる.俺も感じた」 二人は互いを落ち着かせた.自分たちを押し潰す知識を抱えた二人のタイムトラベラー.共有された恐怖の中にだけ,安らぎがあった.戦友として.

「だから俺は祖母を助けたかったんだ」カイトが囁いた.「こんなに残酷でデタラメな宇宙では,一人を救うことに意味がある.全員を救えなくても,失敗したとしても,抗うことに意味があるんだ」 「君は失敗しない.一緒に帰るんだ.マシンを完成させて,彼女を救うんだ」「約束できるか?」「ああ,約束する」 嘘は灰の味がした.だが時として,嘘は真実よりも優しい.

その夜,二人はアメリカ軍の物資集積所に潜入した. 占領初期の混乱は続いていた.日本軍は名目上降伏し,米軍は統治を開始しようとしていたが,すべてが流動的だった.警備は不完全で,兵士たちは手一杯だった. 巨大昆虫や中世の合戦を生き抜いた必死のタイムトラベラーにとって,これ以上の条件はなかった.

二人は闇市で仕入れたアメリカ軍の制服を着ていた.石炭紀の英語は2024年の学校教育で学んだ程度のものだったが,カイトの英語は完璧だった.2228年において,それは世界共通語だったからだ. 検問所を通り抜けるのは超現実的な感覚だった.数週間前まで殺し合っていた敵国の兵士が,平然と英語を話して占領している. その認知的不協和に押し潰されそうになる.

通信用テントを見つけ出した.カイトが即席の焼夷弾で火災報知器を鳴らし注意を引いている間に,石炭紀が必要なコンデンサを掴み取った. 鮮やかに脱出できるかと思ったその時,一人の軍曹が声をかけてきた.「おい,お前ら.どこの部隊だ?」 石炭紀の思考が加速する.「モリソン中尉からの要請です.無線機の修理任務で」 軍曹は疑わしげに目を細めた.「モリソン? そんな奴は——」 カイトが完璧なアメリカ訛りで割って入った.「サー,中尉が至急必要としています.本部の通信がダウンしているんです.最優先事項です」 カイトの自信,完璧な発音,自然な権威——それが功を奏した.軍曹は怪訝な表情を浮かべつつも,二人を通した.

コンデンサを手に脱出した.心臓が早鐘を打ち,アドレナリンで視界が鋭く冴え渡る. 走り去るトラックの中で,二人は笑い始めた.狂気と安堵と勝利の混じった笑いだ.世界最強の軍隊から盗みを働き,生き延びた者たちの笑い. 「やったぞ」カイトが息を切らした.「本当にやり遂げた」 「帰還へ,また一歩近づいたな」

だが,占領下の東京を走り抜け,アメリカ軍のパトロールや打ちひしがれた日本の市民の横を通り過ぎたとき,石炭紀の血を凍らせる会話が聞こえてきた. 検問所にいた二人の米兵の会話だ. 「爆弾の話を聞いたか? 長崎に落としたやつだ」 「ああ,恐ろしいな.まだ予備があるらしいぞ.日本が降伏しなけりゃ,あと5,6発は落とすつもりだったそうだ.東京,京都,大阪...全部な.数百万人死ぬところだった」

石炭紀とカイトは驚愕の表情を交わした.二発の原爆のことは知っていた.だが,さらに多くの爆弾が準備されていたことは知らなかった.日本がどれほど完全消滅の危機に瀕していたかを.

「だから,俺たちは帰らなきゃならないんだ」カイトが静かに言った.「忘れないために.俺たちの時代の人間に,制御できない兵器を作るとどうなるかを理解させるために.目撃者になるために」 「決して証言できない目撃者か.誰も信じやしない」 「なら書き記すんだ.すべてを記録する.この恐怖が忘れられないように」 二人は沈黙の中で基地へ戻った.盗んだ部品と,永遠に彼らを苛み続ける知識の重荷を背負って.

マシンは間もなく完成する.数日以内に,時空跳躍に必要なすべてが揃う. 跳躍は一度きり.チャンスは一度.帰れるのは一人. そして石炭紀は,まだ質量の限界についての真実をカイトに告げていなかった. もうすぐだ.組み立てが終わったら話そう.あらゆる解決策を試し尽くした後に.

だが,心の奥底では理解していた.解決策などない.物理法則は絶対だ. 一人は帰り,一人は永遠に残る. その残酷で,不可能な選択の時が,急速に近づいていた.

つづく...[次話:未来の断片]

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